2009年4月6日月曜日

子供であること、子供じみていること

人が閉塞的な状況に追い込まれている際に、追い込まれている要因や原因を知りながら、
その不利な状況や自身が被る不利益を転嫁したり、同様の境遇に相手を貶めようとする
行為のことを、現代用語では「逆切れ」などというわけだが、一般的にはまだ分別が
形成されていない子供に対しては使わない。多分その理由は少なくとも3つあって、
ひとつは、子供は自身の不利益の価値判断がきわめて直近の時間の中でなされることから、
その評価が大人の考える評価基準とは合わない場合があること、もうひとつは子供
自身が被った不利益の要因や原因への理解にいたらない場合があること、さらには
相手を貶めようとする行為が実際には相手に全く影響を与えない場合があることで、
これらは子供と大人を別けるここに掲げたような事前理解(恐らくはその総称が分別)
なるものが大人側に属することが前提である(だから、分別を持ち合わせていない大人
と子供の間では分別で片付かない衝突が発生する)。

こういった子供対大人という、恐らく動物として組み込まれた保護本能の中では理解
しやすい相関関係も、企業や国家を擬人化してよりよい関係の形成に我々は応用
できているかというと、なかなかそういうわけにもいかないようです。

北朝鮮が最終的に「衛星が周回軌道に入った」と報道している態度をどう扱うかは、
とても重要なことだと思う。確かに打ち上げ行為に対する国連決議違反の討議も必要
だが、問題は常に分別というものを境にして、都度都度の出来事が「子供の領分」
なのか、絵札がない中で一発逆転的な大貧民ゲーム(そう、まさにゲームロジックだ)
なのかが理解できない点だ。

70年近く前に、日本が取った蛮行とその悲惨な結末へ向かわせたものの背景には、
資源をめぐる世界的国家間競争の中での敗者復活戦的な要素があったことも事実だ。
乱暴な例えだけれども、1次リーグの際に、まだ地域リーグにいた日本は、自身の
子供性の内訳を見誤り2次リーグに名乗りで、また米国を始め連合国もファシズムが
もつ分別の錯覚を利用するかのような「子供じみた行為」の本質を事前に理解する
ことはできなかった。

現在のオバマ政権の対話政策は北朝鮮がまだ更正可能な「子供」としてみていることの
現れかと思う。日本と韓国は直接手を振り上げられている(すくなくとも拉致問題等
については)ので、「子供」なんだからという感情で平静を保つことはできないだろう。
だとすれば、「親」同士の対話として米中の処し方こそが鍵なのかも知れない。

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